在国外长大的孩子,已经感觉难以融入日本了

【来源龙腾网】

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「海外で子育て」。この言葉を聞いてどのような印象を持つだろうか。私たち夫婦(共に日本生まれ日本育ち)は現在オーストリアで子供2人を育てているが、日本で子育てをする知人からは「子育てしやすそうでいいね」と言われることが多い。

“在海外养育孩子”,听到这句话会有什么印象呢?我们夫妇(都生在日本,长在日本)现在在奥地利带两个孩子,在日本带孩子的熟人经常说“好像很容易养育孩子真好啊”

実際にこちらで子育てをしていると、国からの支援は充実しているし、以前、「子育てがつらい国、日本。皆を苦しめるその『空気』の正体」という記事にも書いたが、日本で子育てをしている時に感じていた「親は子供が社会に迷惑をかけないように管理すべき」という空気もなく、社会に望まれているという安心感の中で子育てができる。

实际上,在这里养育孩子,国家的援助很充实,以前的报道“养育孩子困难的国家日本,让大家痛苦的氛围的真面目”中写过,在日本养育孩子的时候感觉到”父母应该管理好孩子,不要给社会带来麻烦”这样的氛围,这里没有,可以在社会所期待的安全感中养育孩子。

このような「親側の視点」からの前向きな海外の子育て情報はメディアでも近年よく取り上げられるようになった。しかし上の子が10代半ばに差し掛かった今、私たち家族は、日本ではまだ取り上げられることが少ない「海外で育つ子供側の視点」からの様々な悩みに直面している。中でも特に、海外で育つ子供に対する日本の「排他性」への悩みは深い。

近年来,媒体也经常报道以“父母的视角”为题材的积极向上的海外育儿信息。但是,现在大儿子已经快到青春期了,我们家庭面临着各种各样的苦恼“在海外成长的孩子的视角”,这些苦恼在日本还很少被提及。其中,对在海外成长的孩子,日本的“排他性”的烦恼尤为严重。

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私たち家族は、上の子の就学前にアメリカに渡り約3年間過ごし、その後オーストリアに渡りもうすぐ6年になる。その間に上の子はアメリカとオーストリアのプリスクールや公立学校に通い、アメリカで生まれた下の子も今はオーストリアの幼稚園に通っている。

我们一家人在大儿子上学前去美国待了3年左右,之后去了奥地利也快6年了。在这期间,大儿子在美国和奥地利的普校和公立学校上学,小儿子在美国出生,现在在奥地利的幼儿园上学。

オーストリアでは子供が10代前半の時点で自分の将来について真剣に考え始めるシステムになっており、その中で上の子もこれから何を学び、将来はどう生きたいのか考える日々を送っている。上の子のそんな姿を見て、親としても1人の大人としても嬉しく感じているが、将来という部分に関して私は一つ複雑に感じていることがある。

在奥地利,孩子们在十几岁的时候就开始认真考虑自己的未来,其中大儿子也在思考今后要学习什么,将来要过怎样的生活。看到大儿子的样子,无论是作为父母还是作为一个成年人,我都感到很高兴,但对于将来,我有一种复杂的感觉。

上の子は、学業や仕事のために将来住みたい土地の選択肢として、日本だけはないと明言しているのだ。

大儿子明确表示,为了学业和工作,作为将来他想居住地方的选择,唯独日本不在其中。

日本が好きでも耐えられない

まず誤解してもらいたくないのは、上の子は日本の文化が嫌いではないという点だ。日本の漫画や小説はよく読むし、日本のアニメや映画もよく見る。大使館を通して配布される日本の教科書も読み込んでおり、今年はCOVID-19の感染拡大により実現しなかったが、ここ数年の夏休みはその大半を日本で過ごすのが通例となっている。最近では日本語の語彙力を増やそうと、不安な言葉が出てくるとその場で広辞苑を引くことを習慣とするなど、自分のルーツのある日本にとても強い興味を持っている。

喜欢日本,但也受不了日本

首先,不要误解我的意思,大儿子并不讨厌日本文化。他经常看日本的漫画和小说,也经常看日本的动漫和电影。还阅读了大使馆发行的日本教科书,今年由于新冠疫情的扩散暂停了,但最近几年的暑假大部分时间都在日本度过已成为一种惯例。最近,为了增加日语的词汇量,每当出现难理解的词语时,就立即查日文辞典已成为习惯,对于自己的根源日本产生了强烈的兴趣。

日本人は「言語」にしか興味がない

例えば、アメリカからオーストリアに移ってまだ間もない頃のこと。日本にいる親族と久しぶりに会った際、挨拶してすぐに親族の1人が上の子に「アメリカではOopsって本当に言うの?」と聞いてきたのだ。上の子が戸惑いながら「うん」と言うと、「へー、そうなんだ」とニヤニヤ笑ってその会話が終わった。

日本人只对“语言”感兴趣

例如,我们刚从美国搬到奥地利不久。大儿子和在日本的亲戚久别重逢的时候,他们打招呼后,其中一位亲戚立即问大儿子:“在美国真的会说Oops吗?”大儿子困惑地“嗯”了一声,他笑着说:“哦,是这样啊。”谈话就这样结束了。

その後も、夏休みに日本に滞在する際などに、主に大人から「これ英語でなんて言うの? ドイツ語でなんて言うの?」と一方的に聞かれるという体験を繰り返している。そして多くの場合、そこから海外の文化や歴史またそこで何を考えどう生きているのかについて話が発展するのではなく、上の子への興味が外国語が話せるという部分にしかないかのように言語に関する話だけで終わってしまうのだ。

此后,他在暑假逗留日本时,主要的经历就是大人反复单方面地问他:“这个用英语怎么说?用德语怎么说?”而且很多时候,并没有从这些话题中引申出外国文化、历史以及我们在那里的思考和生活方式的话题,而是仅仅聊关于语言的话题就结束了,好像他们对大儿子的兴趣只限于会说外语。

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一方、今住むオーストリアではこのような経験はとても少ない。例えば、上の子の学校には生まれてすぐにカナダに移住しオーストリアに戻ってきたオーストリア人のクラスメートがいるが、その生徒に皆が尋ねるのはカナダの文化や暮らしといった点ばかりだ。その生徒に質問する形でカナダについて皆で議論するという授業が行われたこともあるとのことだ。同様の授業は、上の子に質問する形で日本についても行われたとのことである。また、学校に限らず、こちらで出会った人が上の子に日本に関して尋ねてくるのはその多くが生活や文化についてであり、たとえその質問が言葉に関するものであっても、文化の一側面としての質問である場合がほとんどである。

相反,在现在居住的奥地利,这样的经历非常少。例如,大儿子的学校里有一个奥地利同学,他一出生就移民加拿大,后来又回到了奥地利。大家向那个学生询问的都是加拿大的文化和生活。也有过以向那个学生提问的形式,大家一起讨论加拿大的课程。同样的,也有向大儿子提问关于日本事情的类似课程。另外,不限于学校,在这里遇到的人问大儿子关于日本的问题,大多是关于生活和文化的问题,即使这个问题是关于语言的,也是作为文化的一个方面的问题。

このように、国外で育つ子供にその土地の言葉の質問ばかりしたり、子供が国外で育つということへの意義を外国語が話せるようになるという部分に強く偏って見出そうとするのは、日本特有の現象なのである。

像这样,对在国外长大的孩子只提当地语言的问题,或者强烈偏向于能说外语就是孩子在国外成长的意义,这是日本特有的现象。

「サードカルチャーキッズ」の苦悩

この日本特有の現象には、私含め多くの日本人が持つ言葉へのコンプレックスや国際意識の低さが関わっているように思うが、私がここで強調したいのは、海外で育つ子供に外国語が話せるという部分に偏って興味をぶつける行為は、人生を左右するレベルでその子供を傷つける危険があるという点だ。これは決して私たち大人が、知らなかったからで済ませていい問題ではない。

“第三文化孩子”的苦恼

我认为,这种日本特有的现象与包括我在内的许多日本人对语言的自卑感和缺乏国际意识有关,但我要强调的是,对在海外长大的孩子会说外语这一部分产生兴趣的行为,在决定人生的层面上,有伤害孩子的危险。这绝对不是因为我们大人不知道,就能解决的问题。

まず前提として、子供は大人と違い、自身のアイデンティティを形成する人生の極めて大切な段階にある。そして日本で見落とされがちなのが、日本にルーツを持ちながら海外で育つ、といった多文化間で育つ子供は、日本で日本人の親の子供として育つ、といった単一文化内で育った子供に比べて遥かにそのアイデンティティの形成過程が複雑という点だ。

首先,孩子与成年人不同,他们正处于塑造自己身份的人生极其重要的阶段。日本人常常忽略的一点是,在多元文化间成长的孩子,其身份形成过程要比在单一文化内成长的孩子复杂得多。

このように多文化間で学齢期を過ごす子供は、サードカルチャーキッズ(TCK)とも呼ばれ、単一文化内で育っただけでは成し得ないレベルで多文化間を柔軟に行き来できる大人に成長する可能性を持つことが知られている。

像这样在多种文化间度过学龄期的孩子,也被称为“第三文化孩子”,他们有可能成长为在单一文化内无法达到的水平,成为能够在多种文化间灵活来往的成年人。

例えば上の子の場合は、家の中では日本人感覚の生活がある一方で、一歩家の外に出ればオーストリアの文化が広がっており、感謝や謝罪のタイミング一つ取っても全く異なる文化の間にいる。そして現地の友人も、既に日本人として確立されたアイデンティティを持つ親も自身のモデルにはなりえない中で、双方の文化の混ざった自分独自の文化観を築き上げ、アイデンティティを形成していかなければならない状況にある。

例如,大儿子在家里过着日本人的生活,但一旦走出家门,奥地利的文化就显现出来,即使是在感谢或道歉的时候,也是在完全不同的文化之间。而且,当地的朋友和已经是日本人身份的父母,都不能成为他自己的榜样,所以必须建立起混合了双方文化的自己独特的文化观,形成自己的身份认同。

このようにアイデンティティの形成に苦しむ子供に対し、言葉を話せることにしか興味がないなど、ルーツのもう半分を置く文化に無関心でいることは、その子供のアイデンティティの形成に混乱を与えるだけでなく、その子供の存在の半分を無視するような排他的な行為なのだ。その結果、上の子は深く傷つき、将来日本に住んでもTCKである自分は受け入れてもらえないと思うに至った訳である。

对于像这样身份认同形成困难的孩子,如果你只对说的语言感兴趣等,对根源的另一半文化漠不关心,不仅会给孩子身份认同的形成带来混乱,而且还是无视孩子另一半存在的排他性行为。结果,大儿子受到了深深的伤害,甚至认为即使将来住在日本,身为“第三文化孩子”的自己也不会被人们接受。

排他性を「放置」する日本の問題

ここで、欧米など海外でも人種差別によって日本人というルーツを否定しているのに何が違うのかという疑問があるかもしれない。確かに実際、上の子も人種差別には苦しめられている。しかし同時に、こちらでは上述したように、日本について言葉以外の質問を多くされたり、異文化を理解するための授業が学校で行われたり、多様な背景を持つ人を受け入れる動きも目に見えて強い。このことが上の子にとっては、差別はあっても自分の居場所もどこかにあるという希望につながっているのだ。

日本“忽视”排他性的问题

在这里,也许有人会有这样的疑问:在西方等海外国家,由于种族歧视而否定了日本人的根源,又有什么不同呢?的确,大儿子也受到了种族歧视的折磨。但是,正如上文所述,那里对于日本,除了语言以外,还有很多的提问,学校也开设了理解不同文化的课程,接受具有多种背景的人的动作也是有目共睹的。对于大儿子来说,即使存在歧视,自己所在的地方也与希望相连。

どの社会にも排他性はある。日本の問題は、その排他性を軽視し社会として放置しているところにある。そしてこのように排他性を放置する社会は、外から見ると社会全体が排他的であることと同義なのだ。

任何社会都有排他性。日本的问题在于轻视排他性,作为一个社会对此置之不理。这样的社会,从外界来看等同于整个社会都是排他性的。

海外での子育てを通して私は、子供に海外生活を強いて多くの苦労を与えている自分の身勝手さや親としての責任を痛感すると同時に、海外で新たな可能性を育む子供達を「異質なもの」として排除する日本の排他性に危機感を覚えている。グローバル化の進むこれからの時代、私たちは持てる想像力を最大限に働かせ、多様な背景を持つ未来ある子供達に希望を与える存在でなければならないと強く思う。

通过在海外养育孩子,我深深感到,自己的自私和身为父母的责任,强迫我的孩子在海外生活,给他们带来了很多的辛苦,同时,日本把在海外培育新的可能性的孩子们当作“异类”加以排除,这种排他性让我感到危机。我强烈认为,在全球化的未来时代,我们必须最大限度地发挥我们的想象力,给具有不同文化背景的未来孩子们带来希望。

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